縄文紀行 北日本の遺跡〜実像に迫る

46 “沈黙するコメ” 縄文稲作はあったのか
(04.03.09)
 「北緯四○度以北の地で、二千年以上も前に稲作が行われていたわけで、世界の農業史上でも例がない大発見だった」
 発掘に当たった青森大学の村越潔教授は、当時をこう振り返る。昭和五十六年、青森県内で初めて見つかった南郡田舎館村の弥生時代中期の水田遺構・垂柳遺跡である。
 ◎三千年前のコメが
 その後、弘前市の砂沢遺跡でさらに古い水田跡が見つかっている。最も確実な線で弥生時代前期―これが、県内で稲作が始まった時期とみられている。
 八戸市の市立博物館。ここの縄文コーナーの一角に顕微鏡が置かれている。中をのぞくと一粒のコメが見える。本物の大きさは数ミリ程度という。
 八戸市内の風張遺跡で出土した縄文の炭化米(国の重要文化財)。縄文時代の後期末とされる竪穴住居跡で見つかった“日本最古のコメ”である。
 それまでの「弥生稲作」の定説を根本から塗り替えるものだけに、大きな反響を呼んだ。そればかりでない。稲作には不適と考えられていた東北最北端の八戸地方で、しかも、縄文時代の後期(晩期ではない!)あたりからコメ作りが行われていた可能性を、この炭化米は暗示していたからだ。
 このところ、研究者や学者の間で「縄文稲作」をめぐる論争が活発になっている。弥生に先立つ縄文時代、既にイネと稲作が存在していたというもの。現状は賛否両論の格好だが、風張のコメはそうした議論を先取りする形で、問題提起をしたと言えよう。
 ◎見えない実像
 あの衝撃的なデビューから十年以上の歳月が流れている。これまでに、風張の炭化米で何が証明されたのか。結論から先に言うが、依然としてナゾに包まれたままなのである。
 少なくとも、問題のコメは三つの可能性を突きつけていた。その中の一つが縄文稲作の可能性。炭化米が見つかっているわけだから、その場所で、実際にコメ作りが行われていたと考える方が自然だろう。
 もう一つは外部から運ばれてきた可能性。よそで栽培されたコメが交易などで、風張に持ち込まれた。栽培用ではなく、祭祀(さいし)か、何かの目的で使用されたものか。
 もう一つは発掘作業の際、たまたま、上の地層から紛れ込んだ可能性。一番、気になる“最悪のシナリオ”。
 依然として、正体が見えてこない風張の炭化米。それは、三つの可能性が、いまだに絞り込まれていないことを意味している。八戸市縄文学習館の小林和彦副参事は、そんな状況についてこう話す。「いろいろな見方があり、これをどう解釈するか、それが難しい」
 ◎埋まらない空白
 水田跡や農具などが一緒に発見されれば別だが、炭化米だけで、縄文の稲作が行われていた証拠とするには無理がある。先ほど述べたように、ほかの可能性も考えられるからだ。
 この問題を解決するには「風張」と、「初期弥生稲作」をつなぐコメ資料の新たな発見が不可欠となるわけだが、これまでのところ、思うような成果は挙がっていない。
 風張に隣接した縄文時代晩期の是川・中居遺跡で、炭化米を意識した大掛かりな土壌の精密調査が実施されたが、結局「コメは見つからなかった」(八戸市文化課)。
 初期弥生稲作との間のブランクは埋まるどころか、孤立を深めている風張の炭化米。縄文の稲作をめぐる解釈は、ここへきて、一段と難しさを増しているようにも見えるのだが…。
 垂柳遺跡が発掘された時期と重なるが、是川・堀田遺跡でもイネのモミ跡がついた籾痕(もみこん)土器が見つかっている。イネの葉に含まれたプラントオパール(ケイ酸体)などともに縄文稲作の根拠とされ、発見当初は縄文晩期の土器と考えられたそうだが、その後、しばらくしてから弥生前期という結論が出されたという。
 (編集委員・江波戸 宏)
 
〜ズームイン〜
 弥生稲作は陸稲か

 青森県に弥生時代は存在しなかった、とする議論もあったそうだ。そんな見方を見事に覆したのが、弥生の水田跡が発見された垂柳遺跡。日本最北端の寒冷地である青森で、稲作が行われていたことが初めて、証明された意義は大きい。
 見つかったのは水路遺構などとともに弥生中期の田んぼ六百六十五枚。一枚当たりの平均は十二平方メートル前後で、そのうちの一部が田舎館村埋蔵文化センターに、化学処理を施して保存されている。
 同センターの武田嘉彦さんによると当時、栽培されていたのは陸稲で、品種は水分の少ない土壌で育つ熱帯ジャポニカの可能性が強いという。現在、日本の水田で作られる品種はほとんどが温帯ジャポニカだが、連作障害や収穫量が落ちるのを防ぐため、一年作ると三年ぐらい放置する輪作をしていたのではないか、と武田さん。
 縄文稲作が行われていたとすれば、おそらくこのようなパターンの陸稲栽培だったのかもしれない。
 
〜縄文雑記帳〜
 炭素年代は「晩期」

 出土した風張の炭化米は全部で7粒で、このうち2粒について放射性炭素年代測定が実施されている。計測値は■(右向き三角)2540±240B・P■(右向き三角)2810±270B・P―というもの。つまり、基準年の1950年から逆算して、約2500〜2800年前のコメというわけだ。
 縄文時代後期末(約3000年前)の炭化米といわれているが、これだと年代はむしろ、縄文晩期(約3000〜2300年前)を指している。それともその程度の年代差なら許容範囲に含まれるのだろうか。
 しかし、縄文晩期とすると逆に矛盾が出てくるのも事実。風張遺跡が存在したのは、縄文後期の後半から後期末までと考えられているからだ。
 炭化米のナゾ解きに向け、DNA鑑定など再調査の可能性について、聞いてみたが「重文指定されているので難しい」というのが文化庁の岡田康博文化財調査官の見解。また、別の関係者に言わせると、どこに何粒のコメが残っているか、よく分からないともいう。